母のお友だち、と言ったらTさん。
私の実家は、かつて食料品店を営んでいましたが、
父と母が結婚する前、
父が独身のときは、違う場所を借りて食料品店を構えてました。
父の店から1本向こうの通りで、魚屋さんを営まれていたのがTさんご夫婦。
昭和40年台の話だから、お付き合いは50年以上になります。
その後、それぞれ土地を購入して新たに店を構えるのですが、
うちの両親は、消費税が導入する年にお店をたたみました。
売り上げが落ちたことと、消費税が面倒だから…、みたいな話を父が言ってました。
Tさんのところも、魚屋さんをたたみ、旦那さんはスーパーの鮮魚売り場に働きに出て、
母のお友だちのTさんは、自宅でクリーニングの取り次ぎ店を始めました。
私の記憶でも、Tさんのお店はクリーニング店のイメージ。
というのも、中学の通学路にTさんの店があったので、よく覚えています。
その後、Tさんはクリーニング店の仕事が始まる前に、ビルの掃除の仕事。
日中は、自宅のクリーニングの仕事。
クリーニングの仕事が終わった後は、スーパーの掃除の仕事。
朝、昼、晩と休みなく働いて、見事にトリプルワークです。
朝の掃除のパートでは、私の母を誘ってくれ、
実家の食料品店をたたんだ直後でしたので、母も数年間は朝の掃除の仕事に出ていました。
その後、Tさんはクリーニング店はたたまれましたが、外での仕事を続けられてました。
Tさんは常に働かれていて、とてもお元気。
Tさんの旦那さんは、母が朝の掃除をしていた頃に亡くなり、
お子さんも結婚して外に出られていて、Tさんは独り暮らし。
その後、朝も夜の掃除の仕事を辞められたあとも、元気に動き回り、人生を謳歌しているようでした。
時は過ぎて、母もTさんも現在は80代。
母に胃ガンが見つかり入院していた時に、
Tさんも検査入院があり、同じ病院で、同じフロア、
夜まで、ずっと話していたと、2人で楽しかったようです。
いつも元気なTさんも、数年前から腰痛があり、
あんなにどこにでも動き回れたのに、痛みから歩けなくなり、
一時的に施設で過ごす、と行ったきり、
その後はそのまま特養へ。
母は、Tさん宅の鍵を預かっていたので、
定期的に、ポストに入っている郵便物を家の中に入れてあげたり、
足りない荷物があった時は、探して出して分かるように置いてあげたり。
(後で、Tさんの息子さんが郵便物の確認や、足りない荷物をTさんに届けてました)
そしてTさん宅の庭の雑草を抜いたり、
収穫できる季節になるとフキノトウやミョウガ、柿などをいただいてました。
Tさんの息子さんも仕事があるので、母が月に数回でも見回りしていたことが助かっていたようです。
Tさんは施設から整形外科に通っていたそうですが、周りの方から自分で歩くのは諦めて車イスの生活をすすめられ、
車イスの生活を受け入れ、もう自宅には戻れないとTさんも諦めたあたりから、自宅を売却する話がでてきました。
私も不動産屋さんの広告を見ていましたが、なかなか買い手は見つからず。
時が過ぎて今年の春、8月末に売却が決まったと母から聞きました。
Tさんは、家にあるものでも、庭のものでも、欲しいものがあったら持っていってとおっしゃっていたので、
7月、私は母と一緒にTさん宅のお庭を見に行き、
我が家においで…と、救ってあげたい気持ちで、いくつか掘りましたが、
根が深く絡まりあい、この家と運命を共にするから、構わないでくれと
拒絶されているような感じに受けました。
スイセンの球根
ミョウガ
芍薬の木
その他に、サボテンやオリヅルランの植木鉢をもらってきました。
Tさん宅は大きな道路沿いにありますが、庭にいると喧騒とは別世界。
緑で青々として、落ち着く空間でした。
その後、8月末の売却の話が9月初旬にずれたと聞きました。
売却は9/6と聞いていたので、私も何となくTさんのお宅のことを気になっていました。
そして母から電話があり、
『Tさん宅、気になったから見に行ったら、もう壊していた…』
一週間も立たずに解体作業、展開が早いですね。
アパートを建設するらしいです。
私も、気になって解体現場を見に行きましたが青々としたお庭は見るかたもなく。
毎年、実をつけていた柿の木も切られ、
大きなソテツの木もなくなり、
家の残骸、コンクリートの基礎が残っているだけでした。
Tさんも自宅に帰ることができないまま、売却となり切なく、心苦しいようです。
私も、数年前に父が残したアパートを売却したことを思い出し、切なく寂しい気持ちになりました。
Tさんのお庭からもらってきた植物、特に芍薬はこの暑さで弱っていましたが、
最近の雨や涼しいときもあったので、元気を取り戻しつつあります。
Tさんからいただいた植物、大事に育てていきたいと思ってます。
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